青猫屋

青猫屋

青猫屋

 花粉症が本格化してきてなんだかもうよく分からない理不尽な苦しみを味わっていて
ていうかていうかていうか、電車の中でくしゃみをして鼻かんでるのって俺だけなんだけど花粉症の人って少ないの?なんだかどいつもこいつも花粉症だ花粉症だ言ってマスクしたり目薬さしたりしてるけれど一日ポケットテッィシュ3つ消費して、部屋にある箱ティッシュを5日で1箱消費してるの?嘘じゃないの?おまえら花粉症だ花粉症だって言いたいだけちゃうんかと。初詣にバレンタインに花粉症とか一緒にしてはしゃぎたいだけちゃうんかと。イベントじゃねーんだぞくそが。そう思って毎日悲嘆にくれて酒を煽り、たとえば1本398円の安ワインを深夜川沿いを散歩しながらガブガブ煽りニヤニヤ笑いながら横向きにカニ走りしつつ草むらに小便をぶちまけよく分からない自作の歌(「だめだ〜もう死ぬ〜愛してる〜」とかそんなん)を口ずさみながら川の流れに逆らって小便を思いっきり噴射し、顔を真っ赤にして限界まで力んで「この川を逆流させてやる!」とか思いながらまた小便を噴射したりしている毎日ですよ。最低だなオイ。
 でもね、最近ね、すごい暖かい日が続いたじゃないですか。20度超えるような。そしたらね、目がね、開かなくなって。痒くて。久しぶりに目に来たわけよ。昔は、10年ぐらい前は、あまりの痒さに目を掻き毟って、なんだベロンってめくれたりしたもんよ。目の中の半透明の何かが。薄い膜みたいなのが。視界が雲ってよく見えなくなってたよ。失明するかと思った。
 で、だからなんなのかというと、絶えられなくなって出先の薬局で花粉症用の目薬を買ってその場で使用したら嘘のように痒みが消えて感激したと。ただそれだけのお話で、ただそれが言いたいだけの為に自らの恥をさらしたわけです。

 「青猫屋」は代々人形作りを生業としてきた。しかしそれは表向きの姿であり、裏では「歌瘤師」といわれる「歌の瘤を抜く」ことを生業としてきた。この町の人々は誰もが歌を歌う。その歌にはメロディーはなく、言葉だけがあるのみで、歌うものによってどんな曲調にもなる。怒りを込めたり、ぞっとするほど優しく歌ったり。そんな歌を町の人々は「歌ぶり」と呼ぶ。そんじょそこらの歌とは違うのだという自負と、本当は歌の「ふり」をした歌ではないものなのかもしれないとう懸念をこめて。「瘤」とはその歌の「魂」でもあり、意図的か意図的でないかにかかわらず誰かを傷つけてしまうもの。歌によって傷つけられた被害者は青猫屋に人形の依頼をするように見せかけてこっそりと「瘤抜き」の依頼に来る。「瘤抜き」とは歌を殺すこと。加害者にとっても被害者にとってもそれは名誉なことではないのだ。
 ある日青猫屋に一人の老人名前忘れた町のお屋敷に住むえらいっぽい爺さんがやってくる。その老人の依頼は48年ぐらい前に先代の青猫屋に依頼したい「歌ぶり対決」の判定の結果だった
 とかなんとかいまさら唐突に書いてみたところで情けないので終わり。
 というかそれ以上にこの話幻想的過ぎて意味が分からなくて面白い。面白いけど説明ができない。頭おかしいんじゃねーのとしか。あれだ、根元敬の著書で見られる、完全に逝っちゃった系の人の「電波文」がどうにも真似しきれない、真似出来ないのではなくて真似しきれない、似たようなものは出来るけれど常人が書いたものでは隠し切れない理性がどうしても滲み出てしまって真似ししきれない。そういうなにか説明できない狂った感じが出ている。発想が。だからこそすばらしいと思うんだけどどうかなぁ。そうでもなくて意外とありきたりなんじゃないかなぁと思わせるまともさも兼ね備えていてやっぱりいまいち「頭おかしいんじゃねぇぇの!?」と言い切るには自信がない。

 オチは昨年10月頃うちにやってきた犬の写真で。
 ノロケですけどなにか?